日本が誇る漫画家、手塚治虫の一生 #2

手塚治虫

2016/07/28 3472 VIEWS

ー出典元 まるちょん名言集

手塚治虫

Osamu Tezuka

1928年11月3日-1989年2月9日

国籍:日本

職業:漫画家/医者

#1では漫画家デビューまでの経緯をご紹介しました。
いじめ、戦争、医者への道との選択と、どんな環境にあろうともマンガを愛し、
マンガを書き続けてきた彼の生き方が数々のヒット作を生み出したのでしょう。

#2では、デビュー後からアニメーション映画の作成までの道のり、最後には亡くなる間際に
彼が放った名言をご紹介したいと思います。 

ここがポイント!
手塚さん

数々のデビュー作


デビュー後は、数々の作品の連載が始まった。
そしてその中には、皆さんご存知の『ジャングル大帝』や『鉄腕アトム』の前身となる、『アトム大使』もあり、少年漫画誌のほとんどで手塚のマンガが連載されることとなった、

大阪から東京へと拠点も移し、ドラえもんの作者で有名な藤子不二雄も一緒に暮らしていたという。

この時も、かねてから抱いていた夢であるアニメーション映画作成の想いは消えず、
年に365本、1日1本ペースで映画を見ていたという。

ここから手塚のアニメーションへの道が始まる。

アニメーションへの挑戦


「いつかはアニメーション映画を」といった漠然とした手塚の想いが決意に変わった瞬間がある。
それは『桃太郎 海の神兵』という映画を見た時である。

この映画は手塚がプロの漫画家になる前の敗戦の年1945年に、海軍省製作したものだ。
それを見て感涙した手塚は、必ず自らの手で漫画映画を作ることを決意したのだという。

実際、マンガはアニメーション映画を作るための手段だという認識も合ったようで、映画を作ることへのこだわりの強さがここからも、うかがえる。

1961年、手塚プロダクションに動画部を設立。
スタッフの給料から制作費まですべてを手塚の描いたマンガの原稿料で賄い、1年をかけて40分のカラー映画『ある街角の物語』を制作。
夢がかなった瞬間だった。
さらには周囲からの賞賛も大きく、ブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など数々の賞も受賞した。

手塚の快進撃は続き、次作品として制作に取り掛かったのが、かの有名な『鉄腕アトム』である。

ディズニーのように映画を専門としたプロダクションではないため、人員が足りず、
毎週のテレビ放送には間に合わないスケジュールとなってしまったが、
創意工夫を重ね、絵の枚数を大幅に減らす、リミテッドアニメの手法を編み出すことに成功した手塚は、『鉄腕アトム』とともに、その制作手法で日本のアニメーション制作業界に大きな影響を与えた。


「100年マンガを書き続けたい」


1989年2月9日。手塚が亡くなるこの日まで、彼はマンガを愛し、書き続けた。
胃がんを患い、ベッドで寝込んでいる時も、医者や妻の反対を押し切り、連載を続けていたという。
昏睡状態に陥ってはまた回復するといった生死の行き来の中でも、回復した時には、「鉛筆をくれ」
言葉を発していた。

そして、彼が最後に放った言葉、それは
「頼むから仕事をさせてくれ」
だった。

終わりに

定期的に人は自分が死ぬ時のことを想像することがあるという。
もちろん筆者である私もたまに想像する。

仮に私達が亡くなる前にどんな言葉を発するのかを考えてみたときに、どんな言葉が出てくるだろうか。
きっとまだわからない。

でも、一生を通してやり続けたこと、愛したこと、大切にしている人のこと、が出てきたらそれは
とても良い人生だったといえるのではないだろうか。

そんな人生を送るためにまた一歩ずつ明日から歩いて行こうと思うのであった。


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